寺の歴史や大きさから考えると、真如堂には宝物が少ないように思われます。一千年の歴史の中で、焼失・移転を繰り返したからではないでしょうか。そのうちのいくつかをご紹介します。

 真如堂縁起 

 歴史の教科書などで1度はごらんいただいたことがあると思います。3巻からなり、真如堂の記録だけではなく、応仁の乱や遣隋使のようすなど、歴史の資料としても大切なものです。字は後柏原天皇の勅筆とされています。
 応仁の乱では、真如堂近辺が東の陣になり、お堂なども打ち壊されました。そういう様子も生々しく描かれています。
 7月25日の虫払会の時は、この写本をご覧いただけます。
 写本は、元禄5年(1692)の焼失・再建などによる危機感が機縁となって、また再建のための勧進を目的として、『真如堂縁起三冊本』などと時を同じくして制作されました(元禄6年頃)。
 この写本の絵・詞書が誰によるものなのかは定かではありませんが、原本を忠実に再現しています。




 舎 利 塔 

 後醍醐天皇寄進の舎利(釈尊の遺骨)を、四天王が囲んで護持しています。
 寄進の際に添えられた命令書である『御綸旨』には、「仏舎利を真如堂の霊宝として、朝夕のお勤めを怠ることがないように」という趣旨のことが記されています。


 油  壺 

 釉貼花花卉鳳凰六耳壺。15-16世紀、中国福建省製。
 この壺は足利義政公が永代燈明油入れとして真如堂に寄進したもので、当時は「汲めども尽きぬ真如堂の油壺」という言葉で富栄の様が語られたといいます。
 義政公は文明16年(1484)神楽岡東の花園田2町を寄進。当寺への帰依は篤かったようです。

 寒 山 拾 得 

 狩野山雪作。
 寒山・拾得は中国の唐時代の脱俗的人物で、8〜9世紀頃の在世していたといわれ、共に天台山国 清寺に出入りして、僧侶たちの残した食物を竹筒に蓄えて食料としたり、寺内で叫び声や罵声を発したり唱歌諷誦し、また廊下を悠々漫歩して僧侶を困惑させ、杖を持って追われると掌を叩きながら「あっはっは」などと大笑いしておもむろに去ったと言われています。
 僧でもなく、俗人でもなく、一見風狂貧子のようでしたが、仏教の哲理や詩作には深く通じていたようで、彼らの不気味な薄笑いは人間の表裏を表しているとも言われています。
 狩野山雪(1590-1651)は狩野山楽の門人でしたが、娘婿となって狩野姓を許され、個性の強い作品を残しました。
 山雪は中国画の研究にも熱心で、当図は中国の顔輝派の作品を元に解釈を加えたものです。
 絵は畳2畳分ほどある大きなものです。


 涅 槃 図 

 お釈迦さまは、今からおよそ2500年前、北インドのカピラバストという一小国の王子として誕生されました。29才の時出家、6年間の修行の後、「目覚めた者」・「仏陀」の境地に到達されました。以後、80才で亡くなるまでの45年間、自らの悟られた教えをインドの諸地方を遍歴しながら説き続けられました。
 80才になられたお釈迦さまは、わずかの弟子を伴って旅に出かけましたが、その途中食中毒にかかられ、クシナガラというところで息を引き取られました。
 「涅槃」とは、欲望の炎が吹き消された状態をいいます。当初は、お釈迦さまが35才で到達された境地を単に「涅槃」と呼ぶのに対し、お釈迦さまが亡くなってその肉体も滅した時を「大般涅槃」と呼んで区別していました。しかし、やがて「涅槃」という言葉がお釈迦様の死を意味する言葉として用いられるようになり、その時の様子を描いたものを「涅槃図」と呼ぶようになりました。
 この涅槃図は、三井家の女性たちの寄進により、宝永6年(1709)に僧厭求や海北友賢らによって制作されたもので、縦6.2メートル、幅4.5メートルの大きなものです。
 厭求は、江戸時代の浄土門の高僧。京都で生まれ、17才で江戸に赴いて、深川で修行をしている時に明暦の大火に遭い、その惨状に無常を感じて大衆救済に立ち上がりました。その後、全国を行脚して過ごし、82才で亡くなるまで、生涯定住しなかったといいます。
 「性甚だ寛宏にして宗派に拘泥せず・・・阿弥陀経を写すこと一千部、弥陀の尊号を書する十万部、仏菩薩の像を画くこと其の数を知らず」(『望月佛教大辞典』)と、様々な宗派の寺々に巡遊・滞在し、厭求作といわれる仏画や仏像が各地の寺に現存しています。
 海北派は海北友松を始祖とする江戸期の画派で、京都画壇の名門です。友松の後、友雪−友竹−友泉−忠馬−友三−友徳−友憶と続きましたが、友松・友雪の後はあまりみるべき作品がないといわれています。友賢は友雪の門人で、直系ではありません。
 真如堂の涅槃図は、当時人気の高かった厭求をプロデューサーとし、海北友賢を実際の画工として制作されたものでしょう 。
 沙羅の木の元に、北に頭を向け、右脇を下にしたお釈迦さまが身を横たえ、そのまわりを菩薩・天部や弟子たちが囲んでいます。真ん中の上には2月15日の満月が、右上の雲にはお釈迦さまの生母である摩耶夫人が急を聞いてはせ参じる様子描かれています。
 また、下部全域には多くの動物や魚類・昆虫などが、手向けの花をくわえたり手に持ったりして、その死を悼んでいる様子が描かれていますが、その数は127種類にも及び、涅槃図に描かれた動物の種類の多さでは日本最多であろうとされています。
 当涅槃図には猫も描かれていますが、猫を描かないのは、お釈迦さまの急を聞いて駆けつけた摩耶夫人が投げた薬が木にひっかかったのを鼠が取りに行く、それを邪魔させないためだとか、猫は鼠を捕って殺生をするためだとか、諸説あります。
 一般的に、涅槃図は制作年代が下がるにつれ、家畜などを描くようになっていきます。猫は、仏典が船によって運ばれる時、鼠の害を防ぐために猫を船倉に入れられたなど、仏教にとってはいわば‘恩人’でもあります。
 僧厭求の弟子貞極は、「猫は鼠を捕って殺生をするから涅槃図には描かないという説があるが、それは根拠のないことだ」と書き記しています。
 画面の左下の水の中には、蛸や魚類が中央で横たわっておられるお釈迦さまの方に向かって賢明に泳いでいる姿も描かれています。
 厭求、貞極の師弟はあらゆる生類を差別なく描くように努めたのでしょう。

 この大涅槃図も経年劣化により、傷みが激しく、穴が空いて向こう側の明かりが見えるほどにまでなりました。「早く直さなければ・・・」と思っていましたが、莫大な費用がかかります。しかし、修復が遅れれば遅れるほど修復には困難が伴いますし、費用もかさみます。
 「このままではますます傷んでしまう。とにかく直そう」と、2009年4月から2011年2月までに2年がかりで巨費を投じて平成の大修復を行いました。

剥がされた涅槃図の裏書き
 裏打ちの紙や軸木などをはずしてみて、新たに判ったことがありました。
 軸木には、「三井氏が涅槃図を描いて欲しいと厭求翁に依頼したところ、厭求翁は絵の具を調達してくれるならと言った。三井氏はそれに応じ、厭求は描くことを応諾した」ことなどが記されていました。また、完成してほとんど月日の経っていない享保19年(1734)に一度修復し、さらに明治30年(1897)に直していますが、その程度はわかりません。
 大涅槃図は修復に伴って汚れや埃などが取り除かれて、ますます色鮮やかになりました。欠損していた部分などは加筆をせずに、補強などだけに留めました。
 素晴らしい涅槃図をぜひ御参拝ください。  


 観 経 曼 陀 羅 

 観経曼陀羅(かんぎょうまんだら)は『観無量壽経』にかかれている極楽浄土の世界などを絵解きのような形で忠実に表現したもので、奈良の当麻寺に天平時代に製作された同図があるところから、同様のものを「当麻曼陀羅」と呼ぶようにもなりました。
 中心に説法しておられる阿弥陀如来を配し、両脇や下部には浄土の世界をイメージする方法(「十六観相」)やビンバサラ王夫妻とアジャセの物語、九つにわかれた極楽の世界の様子などが描かれています。
『観無量壽経』には次のような物語が描かれています。
 インド・マガダ国の王舎城の王宮内で行われたアジャセによるビンピサーラ王逆害の悲劇を機縁として、イダイケ夫人のため釈尊が浄土往生の法を十六門に分けて説かれました。
 アジャセはビンバサラ王の太子でしたが、ダイヴァダッタにそそのかされて、父王を幽閉し、王位を奪い、餓死させようとしましす。しかし、なかなか王が死なないのはイダイケ夫人が蜜を送って内通したためであるのを知り、ついに母をも殺害しようとしますが、ギバや月光の二大臣のいさめにあい、やむなく母も深宮に閉置します。
 イダイケ夫人はギシャク山に向かって仏を祈念し、仏は王宮に来臨して往生の業たる三福と十六観を説かれました。ここにイダイケ夫人は極楽の相と仏および観音・勢至の二菩薩を見ることを得て無生忍の果を得、仏は再びギシャク山に帰られました。
 この説話は『涅槃経(ねはんぎょう)迦葉品善見太子逆害物語』および『梵行品阿闍世王帰仏物語』と関連し、仏教文学中の有名な一節です。
 三福とは世福・戒福・行福であり、十六観とは日想・水想・地想・宝樹・宝池・宝楼・華座・像・真身・観音・勢至・普・雑想・上輩・中輩・下輩の十六観です。このうち像・真身・観音・勢至の四観はそれぞれ仏菩薩の像を詳説したものです。三輩観は九品往生を説き、下下品の中には「具足十念称南無阿弥陀仏」の文があり、これらの教説は浄土教を凡夫往生への信仰へ導くために大きな影響を与えました。
 この経は4世紀の終りに近く中央アジアで成立したとみられる種々の観経と関係があり、その地方で行われた特殊な宗教儀式と関連して発達したものだろうと考えられています。
 真如堂の観経曼陀羅は金糸などによる刺繍で、江戸中期の明和4年(1767)、この本堂の大きさにあわせて製作された縦5メートル、幅4.4メートルの大きなもので、三井家より寄贈されました。傷みが著しくなって近年補修されました。