歴史・伝承

女人済度の由来や陰陽師・安倍晴明の蘇生伝説、歴史についてご紹介します。

  • 戒算上人
  • 東三条院

慈覚大師と東三条院

真如堂の始まりに大きく関わった平安期の歴史的人物です。
慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)は、最澄に師事した比叡山の僧侶であり、唐から密教経典を持ち込んだ入唐八家のひとりです。第三世天台座主を務め、天台宗の教えを大成させました。真如堂の御本尊・阿弥陀如来立像は、慈覚大師円仁が苗鹿大明神で見つけた霊木で彫ったもので、衆生済度、特に女人済度の阿弥陀如来とされています。
ある晩、「神楽岡のあたりに小さな桧千本が一晩のうちに生えた場所がある。そここそ仏法有縁の地であり衆生済度の場である」というお告げを受けた比叡山の僧・戒算上人が、この阿弥陀如来立像を比叡山から京へと持ち出して、そのお告げの場所である東三条院の離宮に遷座させました。東三条院(藤原詮子)は、藤原兼家の娘であり藤原道長の姉であり、円融天皇の女御にして一条天皇の母です。とても信心深い女性と伝えられています。その後、真如堂は一条天皇の勅願所となり、多くの人々、特に女性から深い帰依を得ることとなりました。

安倍晴明の蘇生

安倍晴明(あべのせいめい)は平安時代に活躍した陰陽師です。陰陽道とは陰陽五行説に基づくもので、平安貴族の日常生活や国政に大きな影響を与えた信仰的思想です。安倍晴明は、同時期に生きた東三条院に吉凶を勘申していたかもしれません。真如堂御本尊の脇侍の不動明王は、安倍晴明の念持仏(自邸にまつっていた仏像)といわれています。
「真如堂縁起」には、不慮の死に遭った安倍晴明が閻魔大王の前に引き出された時、この不動明王がその場に飛来して命乞いをする様子が記されています。閻魔大王は「是は我が秘印にして、現世には横死の難を救い、未来にはこの印鑑を持ち来る亡者、決定往生の秘印なり。是は汝一人のために非ず。娑婆へ持ち帰り、この印鑑を施し、あまねく諸人を導くべし」と言って、「五行之印(決定往生の秘印)」を授けました。その後85歳まで生きた安倍晴明は、この秘印を多くの人々に施したと伝えられています。
7月25日の宝物虫払会では、この蘇生伝説に基づく五行之印による無病息災・長寿の加持が行われています。また、それ以外の日でも印紋は本堂で授与しており、「復活」の護符として、また、極楽往生を願う方が求めていかれます。

春日局の父・斎藤利三

斎藤利三(さいとうとしみつ)は、明智光秀の重臣で、徳川家光の乳母である春日局の父親です。本能寺の変で秀吉軍に敗れた斎藤利光は処刑され、その首は斎藤利三と親交があった絵師・海北友松らによって真如堂に葬られました。
本堂前南側の囲いの中に植わっている「たてかわ桜」は、春日局が、父の菩提を弔うために植えたといわれています。ソメイヨシノの木の皮が横向きなのに対して、樹皮に縦向きの皮目があることから、「縦皮桜」と呼ばれるエドヒガンという品種です。1959年の伊勢湾台風で折れてしまいましたが、復活を遂げて清楚な花を咲かせるようになりました。

京都映画誕生の碑

本堂のそばに「京都映画誕生の碑」と刻まれた石碑があります。2008年、「京都・映画100年宣言」プロジェクト推進協議会の呼びかけにより、吉永小百合さんや田村正和さんなどの映画関係者を中心とした81人の寄付で建立されました。
この四角い形は、「映画の父」と呼ばれるリュミエール兄弟が発明した複合映写機(シネマトグラフ)を模しています。京都生まれで「日本映画の父」として日本映画の創世記を築いた牧野省三が、1908年にシネマトグラフを用いて撮影した初の劇映画『本能寺合戦』の舞台となったのが真如堂の境内でした。この地で、日本の映画文化が誕生したのです。

真如堂年表

年号 西暦 真如堂関係事項
承和 5 838 円仁、入唐求法の旅へ出発。
承和14 847 円仁、帰朝。
永観 2 984 戒算、延暦寺常行堂の阿弥陀如来像を、神楽岡東の東三条院の離宮に移座。
寛和 2 986 一條天皇即位。藤原詮子、皇太后になる。
正暦 2 991 藤原詮子出家し、東三条院と称する。
正暦 3 992 真如堂創建の宣旨下り、堂舎建立、寺観はじめて成る。
正暦 5 994 阿弥陀如来像を真如堂に遷御、本尊となす。
長保 3 1001 東三条院没(40才)。
天喜 1 1053 真如堂開山の戒算没(91才)。
治承 1 1177 治承の乱後、真如堂の堂宇荒廃するも、貞慶上人の勧進で復興。
文永 1 1264 安嘉門院、真如堂に摂津の庄を施入、父後高倉院の菩提を弔う。
応仁 2 1468 8月3日、応仁の乱を避け、真如堂本尊、比叡山青竜寺に動座。
文明 2 1470 3月15日、真如堂本尊、江州穴大の宝光寺(穴太真如堂)に移座。
文明10 1478 3月26日(一説に文明9年3月26日)、真如堂本尊、穴太より洛中一条町(現在の元真如堂町)に遷座。
文明16 1484 5月6日、足利義政、真如堂本堂の旧地(神楽岡)への再建と本尊の帰座を命じ、6月1日帰座。6月11日、義政、真如堂へ灯明料として神楽岡東の花園田2町を寄付。
文明17 1485 3月2日、真如堂本堂立柱。
明応 2 1493 8月15日、新造なった真如堂本堂にて本尊遷座の供養法会を修す。
文亀 3 1503 3月2日、真如堂本尊開帳。
永正 7 1510 2月3日、「元三大師画像」(真正極楽寺蔵)修理。
永正12 1515 12月30日、室町幕府、真如堂に灯明料として神楽岡東花園田2町を安堵する。
永正16 1519 9月、「不動明王画像」(真正極楽寺蔵)修理。
大永 1 1521 8月29日、真如堂本堂落慶供養。導師青蓮院尊鎮、勅使蔵人右中弁柳原資定。足利義晴、これを祝して太刀一腰、馬一疋を進ず。
大永 2 1522 2月、定法寺公助、真如堂上葺に際して勧進文を草す。
大永 3 1523 閏3月2日、真如堂において勧進猿楽張行。
8月10日、三条西実隆、「真如堂縁起」下巻詞書6段分を揮亳。
大永 4 1524 8月15日、青蓮院尊鎮、「真如堂縁起」の奥責を記す。
享禄 2 1529 4月9日、三条西実隆、「真如堂縁起」詞書を書き改む。
天文16 1547 閏7月24日、真如堂の本尊阿弥陀如来、小御所へ入参、その奉加に26日、太刀と千疋の折紙を賜わる。
天文17 1548 真如堂21世住持昭淳歿。
永禄10 1567 7月2日、将軍足利義昭の命により、真如堂、足利義輝の菩提所となり、室町勘解由小路の義輝邸址に移されることになるも、のちその地に義昭の邸が新築されることになったため、永禄12年2月30日、新しい寺地を一条通北(現存の元真如堂町)と定め、これに移転。
天正15 1587 豊臣秀吉の聚楽第建設に伴い、真如堂、京極今出川に移転。
慶長 9 1604 豊臣秀頼により真如堂本堂再建。
慶長19 1614 鐘楼再建。
寛文 1 1661 真如堂焼失
延宝 5 1677 1冊本『真如堂縁起之写』刊行
元禄 3 1690 真如堂再建。
元禄 5 1692 真如堂焼失。
元禄 6 1693 東山天皇の勅により、真如堂、現在の寺地に復す。3冊本『真如堂縁起』刊行。あわせて中院通躬、3冊本『真如堂縁起写』の書写を果たす。
元禄 8 1695 総門(中門)竣工。
元禄 9 1696 元三大師堂竣工。
元禄16 1703 真如堂上棟。
宝永 2 1705 真如堂、28世住持尊通の勧進によって現在の伽藍を建立。入仏供養。
宝永 6 1709 海北友賢、三井家の女性たちの寄進にかかる「大涅槃図」制作。
延享 2 1745 宝蔵竣工。
宝暦 9 1759 鐘楼竣工。
安永 9 1780 千体地蔵堂竣工。
文化14 1817 三重塔竣工。